丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)は2021年に開館30周年を迎えます。これまで「美術館は心の病院」をコンセプトに、展覧会を始め、地域に根付いた多様な文化活動を展開してきました。画家猪熊弦一郎は、訪れる人々にとってMIMOCAが「心の病院」であることを大切にしていました。猪熊の思い描いた「心の病院」について、設立までのストーリーとMIMOCAの特色をもとに、2回に分けてご紹介します。
1987年2月、東京の猪熊弦一郎のアトリエを二人の丸亀市の職員が訪ね、「丸亀に美術館をつくりたい」と相談を持ちかけました。その日の猪熊の日記(1987年2月15日付)には次のように記されています。
「私の美術館の問題はまったく難有い(原文ママ)話である」
「美術館に就いてのむつかしさ 又やるならこんな風にと色々と私の意見を述べてくる」
「本当にうれしい事 幸福な話である とっくり考へねばならない」
当時、丸亀市は瀬戸大橋の架橋や新高松空港の開港を目前に、新しいまちづくりの拠点となる特色ある美術館の建設を目指していました。そのため、幼少時代の一時期を丸亀で過ごし、旧制丸亀中学(現 香川県立丸亀高等学校)を卒業するなど丸亀と縁の深い猪熊に協力を仰いだのです。
数ヶ月後、今度は丸亀市長(1987年当時/堀家重俊)が東京の猪熊宅を訪れます。市長の申し出を受け、猪熊はこう答えました。
「わかりました。どこにも無いような美術館を造りましょう。私も微力ながら喜んで協力します。(中略)どうか中途半端でない良いものを造って下さい。」(*1)
猪熊は自分の作品を丸亀市に寄贈することを決め、その年の10月、丸亀市は市制施行90周年記念事業として「丸亀市立猪熊弦一郎記念美術館(仮称)」の建設を発表しました。(*2)
個人を顕彰する記念美術館は作家が亡くなった後に建てられることが多いのですが、猪熊は当時84歳ながら現役で精力的に活動しており、幸運にも自分の名を冠した美術館の建設に計画当初から密接に関わることが出来ました。コンセプトから立地、建築、家具やトイレのマークにいたるすみずみまで入念に心を配り、「丸亀を日本の丸亀に作り度い」(*3)という猪熊の情熱を受けた市側も彼の意思を尊重し、互いに「良いものを造る」ための協議を重ねました。こうして「とっくり考え」られたことがらが、現在のMIMOCAを特色づけ、人々を惹きつける魅力の素となっています。
その特色を次回、ご紹介します。
*1―「猪熊先生は美術館に居る」堀家重俊、『キャンバスを超えた画家猪熊弦一郎』p.126、1994年5月発行、四国新聞社
*2―「猪熊弦一郎氏の記念美術館 JR丸亀駅前に建設へ」、四国新聞社 1987年10月25日 23面
*3―「追慕」河野虎雄、『キャンバスを超えた画家猪熊弦一郎』p.108、1994年5月発行、四国新聞社
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