MIMOCA NEWS 007 |
第7回 疎開先の話 | |||
猪熊は1944年に神奈川県津久井郡吉野町(現神奈川県津久井郡藤野町、以後文中では吉野町と表記)に疎開しています。吉野町には猪熊の他に藤田嗣治、荻須高徳、新制作派協会(現新制作協会)の佐藤敬、中西利雄、脇田和ら多くの画家が疎開していました。 さて今回は猪熊が疎開していたお宅をお訪ねし、当時学生だった大房節夫氏にお話を伺うことが出来ました。 猪熊は最初1944年9月に疎開する予定でしたが、病気のため12月頃に移ったようです。 大房さん宅では1階を間借りし、作品を2階に置いていました。疎開だというのにたくさんの作品、ピアノ、ベッドを持って行き、それに飼っていた猫までも連れていったそうです。猪熊、夫人ともに猫が好きで戦後の一時期には12匹もの猫を飼っていたこともありますが、この時はみっちゃんとタヌ子の2匹を連れて行きました。ところがみっちゃんが近所の家で飼っていた鶏を食い殺してしまうという食糧難の時代ならではの大騒動を起こします。この騒動については『猫』(中央公論社・1955年)という本に猪熊が文章を書いていますので詳しくはそちらでどうぞ。
さて大房さんのお宅の前には相模湖が広がっています。当館には「ダムのある風景」(1945年ごろ) という相模湖を描いた作品が収蔵されていますが、実際にその場所に立つと、幾分周囲の風景が変化しているものの、まさにここを描いたものだと実感しました。こうして自分の作品を制作する一方で、従軍や派遣画家として戦地に赴いて描いた作品をこの地で描き上げたりもしていました。 生活は厳しく制作もままなりませんでしたが、猪熊は時に自分の誕生パーティーを催して楽しく過ごす場を設けるなど、決して良いとは言えない状況でもその現状を肯定し、楽しみをつくりだしていました。また猪熊夫人も頂いた舞台の招待券を譲ったり、元旦に新聞配達の少年にお年玉をあげたりとその心遣いは大房さんの印象に強く残ったそうです。滞米時や日本に帰国後も来客が絶えず、もてなし上手と言われた夫人ですが、疎開中はいつもに増してその心遣いが周囲を温かくさせたことでしょう。
多くの画家が吉野町に疎開したのは、ある程度都心から近く、東京と連絡が取りやすいこともあってのようです。新制作の画家たちは新聞小説や雑誌の挿絵を多く描いており、編集者が挿絵の依頼や受け取りに度々訪れていました。猪熊の所にも『婦人画報』や『新女苑』といった雑誌の編集者が原稿を受け取りに来ていたそうです。こうした日々を送っていた猪熊は終戦を吉野町で迎えますが、戦後はすぐに東京に帰らず、地元の人のための絵画教室や声楽家の佐藤美子氏(佐藤敬夫人)を中心に歌の教室を開いたりしながらしばらく滞在していました。 今回は吉野町で制作した作品のことや交友関係など新しい事実を知ることができました。これからも猪熊についてわずかずつでも検証を進めていきたいと思います。 最後になりましたが、お話して頂きました大房節夫氏に厚く御礼申し上げます。 |
☆ コーナー名の"Cats in the Storage"とは『収蔵庫の猫たち』という意味です。 猪熊弦一郎の愛して止まなかった猫にちなんで名づけました。 |
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